泰岳寺の歴史泰岳寺は室町時代(1486年)に建立され、春日井に根付いて約500年続く禅のお寺です。
泰岳寺の本尊様と開山様
本尊様は、木造の聖観世音菩薩坐像。法華経において観音菩薩は三十三通りに姿を変え、火難・水難・盗難などの災難を救い人々の悩みを無くすと説かれます。 本像は江戸末期の蓮華座に結跏趺坐しております。右手は肘をまげて掌を前にして立てる施無畏の印とし、左手は蓮華を腹前に持ってきています。宝冠や首飾り・腕輪には真鋳を使っています。 体は細身で慈悲に富む柔和なお顔ですが、全体に形式化しているのも江戸末期頃の特徴です。 |
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開山様(初代住職)は、仁済宗恕禅師。別名を本覚霊照禅師ともいいます。 現在の岐阜県である美濃の国加茂の郡で生まれました。妙心寺派の中でも東海派の祖である悟渓宗頓禅師の法嗣であり、後に同じ臨済宗の大徳寺派の本山大徳寺において住職になられたほどの高僧であります。 泰岳寺を開創したときは、仁済和尚が52歳のときでした。かつて上条村とよばれていた里の林家と縁があり、開山に招かれました。 |
泰岳寺の開創
泰岳寺の開創は室町時代の文明18年(1486年)で、開山仁済禅師の52歳の時でした。当時は上条村と呼ばれていた現在の泰岳寺の地に、林彦右衛門尉重緒氏が子孫の繁栄を願って、仁済宗恕禅師を招請して泰岳寺を開創しました。林彦右衛門尉重緒氏は木曽義仲の重臣である今井四郎兼平の3代目城主男阪孫九郎光善より11代目にあたります。
また仁済は藤原族世良氏の末裔で、美濃の国の生まれであり、林家とゆかり深い縁がありました。仁済の諸国遍歴の折にこの地を通って林重緒氏にめぐりあい、仁済の高徳知識に深く感銘し、帰依して泰岳寺に迎えて開山としたと伝えられております。
歴代住職
泰岳寺の歴代住職は下記の通りです。9世までは土岐市妻木町の崇禅寺で入寂しており、それまでの住職は、泰岳寺も兼務でありました。
初代:仁済宗恕 | 詳細はこちら |
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2世:桂峰玄昌 | 仁済禅師の弟子、尾張建国寺を創建、1520年妙心寺に出世する。1539年7月28日に入寂。 |
3世:勝岩宗珠 | 桂峰禅師の弟子、熱田の海禅院を開き1524年妙心寺に出世する。1551年2月2日に入寂。 |
4世:虚堂笑山 | 勝岩禅師の弟子、1580年に妙心寺にのぼり寺の発展に尽くした。1584年3月27日に入寂。 |
5世:策甫宗勝 | 虚堂禅師の弟子、妙心寺にも出世した。1596年7月7日に入寂。 |
6世:清岩宗源 | 崇禅寺の中興開山。土岐市に常福寺・広徳寺・保福院、瑞浪市に宝昌寺を建立。妙心寺にも出世した。1639年10月27日に入寂。 |
7世:見竜宗潭 | 清岩禅師の弟子、広徳寺の開山。1636年12月28日に入寂。 |
8世:末伝宗本 | 清岩禅師の弟子、多治見市溪雲寺の開山。1669年2月18日に入寂。 |
9世:物現宗勤 | 末伝禅師の弟子、1690年5月11日に入寂。 |
10世:達禅宗安 | 泰岳寺の中興開山、柏井町桂林寺・庚申堂・御油の薬師堂の開山。1671年1月20日に入寂。 |
11世:柳州宗柳 | 達禅禅師の弟子、1715年12月29日に入寂。 |
12世:物禅宗萬 | 柳州禅師の弟子、1738年9月6日に入寂。 |
13世:広雲宗沢 | 物禅禅師の弟子、1758年11月2日に入寂。 |
14世:材州宗棟 | 広雲禅師の弟子、1795年1月23日に入寂。 |
15世:雍山宗粛 | 材州禅師の弟子、名古屋城三の丸の門を泰岳寺山門として貰い受けた。1816年9月25日に入寂。 |
16世:仁裔宗成 | 雍山禅師の弟子、1858年3月19日に入寂。 |
17世:虎州宗格 | 仁裔禅師の弟子、1853年5月5日に入寂。 |
18世:樵雲宗礁 | 虎州禅師の弟子、春日井市稲口町出身、1900年5月7日に入寂。 |
19世:快岩道活 | 樵雲禅師の弟子、春日井市鳥居松町出身、1928年9月14日に入寂。 |
20世:東嶽文海 | 春日井市六軒屋町出身、1967年8月9日に81歳で入寂。 |
21世:円応静進 | 春日井市篠木町出身、丹羽郡扶桑町東漸寺の鉄船和尚の弟子。昭和22年(1947年)に泰岳寺に入寺し、昭和31年(1956)に晋山住職。昭和61~63年にかけ泰岳寺本堂並びに付属建物等建設事業に尽力。平成12年(2000年)5月に退山し平成25年(2013年)に88歳で入寂。 |
現住職:円鑑治道 | 昭和24年(1949年)に泰岳寺で生まれる。多治見市の虎渓山永保寺にて参禅修行。平成12年(2000年)5月に晋山住職し現在に至る。 |
明治以降の泰岳寺
明治5年の学制頒布によると、明治6年に寺小屋から小学校に移行しました。最初泰岳寺に上条村仮義校が創立され、同年一当学校と改称、明治9年上条学校となり、明治15年に大光寺へ移転し、尋常小学和爾良学校となるまで、泰岳寺は義務教育最初の学校として、多くの子弟が勉学に励みました。また、江戸時代後期から明治維新を経て明治初期まで活躍した上条城主の小坂氏の子孫である林金兵衛重勝の所縁のお寺であり、境内にお墓も残っています。
明治24年の美濃地方を震源とした濃尾大地震では、泰岳寺も土蔵が全壊するなど多大の被害を受けました。大正12年に上条地区へ初めて電気が引かれました。泰岳寺にも本堂、座敷、庫裏につけられました。
上条地区は昭和42年中頃まで、下条地区も昭和43年までは土葬でした。太鼓をたたき妙鉢を鳴らしながらの親類縁者の葬列は火葬と共に姿を消しました。台風により損壊した建物等の修復には檀信徒の浄財金・国鉄地代・見舞金などで充当し完全に修復することができました。
昭和45年には南禅寺派管長・柴山全慶老大師を同師に拝請して仁済禅師450年遠忌を厳修致しました。昭和44年~54年にかけて野墓地を集約し泰岳寺墓地の移転が完了しました。昭和59年の発願に始まる泰岳寺本堂並びに附属建物等建設事業が昭和61年9月に着工し昭和63年3月に完了しました。寺院役員並びに檀信徒の方々の御尽力により本堂・庫裏・諸堂等が全面改築されました。昭和63年5月3日に妙心寺派管長・倉内松堂老大師を拝請して泰岳寺開創500年遠忌と併せて落慶法要が厳修されました。